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1. はじめに
本報告は、脳卒中患者のバランス機能評価と改善におけるBerg Balance Scale (BBS) Keyformの活用に焦点を当てた症例報告である。脳卒中患者の運動能力維持と日常生活動作(ADL)向上には、バランス機能の測定とモニタリングが不可欠であり、正確な評価に基づいた介入が求められる。しかし、従来の評価指標(古典的テスト理論:CTTに基づく)は、セラピストにとって「意味がない」と感じられることがあり、評価結果と介入内容の難易度フィッティングの問題も指摘されていた。
近年、これらの課題を克服する可能性のあるツールとして、項目応答理論(IRT)に基づいた「Keyform」が提案された。Keyformは、ソフトウェアや専門的な統計学のトレーニングなしに、項目-難易度の階層に対する個人の能力レベルを特定できる。本報告では、右被殻出血後にバランス機能低下を認めた50歳代男性に対し、BBS Keyformを用いた理学療法の実践と、その治療経過を詳細に記述する。
2. BBS Keyformの概要と臨床的意義
BBS Keyformは、従来のCTTが評価結果を全体のレベルで解釈するのに対し、個々の項目に焦点を当て、難易度順に並べ替えられた項目の中から、その時点での個人の「至適難易度の課題領域(移行ゾーン)」を特定する。これにより、セラピストは患者の能力レベルに合わせた客観的な介入内容を考案しやすくなる。
「Keyformは、ソフトウェアや専門的な統計学のトレーニングを必要とせずに、項目-難易度の階層に対する個人の能力レベルを突き止める方法である。」
Keyformを使用しないCTTに基づくフィードバックが「合計41点でした。『48点以上取れると屋外歩行が自立できる可能性が高い』というデータがありますので、まだもう少しバランスの向上が必要ですね」といった総得点やカットオフ値に焦点を当てるのに対し、Keyformを用いた場合は「(Keyformの結果を見せながら)これが今回の結果です。下から上に難易度順に並んでいます。ここから点数が下がっていて、座り換えや物拾い、脚を閉じてバランスをとることなどが次の課題になりそうですね。明日から練習を変えてみますね」と、移行ゾーンにある具体的なバランス課題に焦点を当てたフィードバックが可能となる。これは、患者の理解を深め、治療への主体的な参加を促す上で重要である。
3. 症例概要とKeyform使用前の経過
対象は、屋外歩行中に運動麻痺と意識消失を呈し、右被殻出血と診断された50歳代の男性である。保存的治療後、発症28病日に当院回復期病棟に入院した。入院時の評価(28病日)では、左上肢・手指・下肢のBrunnstrom recovery StageはそれぞれⅠ・Ⅰ・Ⅳ、左下肢のMMTは低く、下肢触覚・位置覚に重度の障害を認めた。BBSは5点と極めて低く、座位の安定と移乗の一人介助のみ加点があった。歩行は靴べら式短下肢装具装着下で平行棒内歩行が全介助を要し、麻痺側下肢位置の制御が困難であった。
Keyform使用前の初期理学療法(28病日~49病日)では、準備的活動(他動関節可動域練習、ストレッチ、下肢・体幹筋力増強)、立ち上がり/着座、歩行準備活動(バランストレーニング)、歩行練習が行われた。約20日間の介入後(49病日)にはBBSが41点まで改善したものの、立ち上がり後のふらつきやステップ時の不安定性が残存し、特に感覚障害が不安定性に強く影響していると推察された。この時点で、主要な問題点をバランス機能低下と捉え、BBS Keyformの使用が検討された。
4. Keyformを用いた介入プロセスと経過
本症例では、49病日から91病日まで2週間ごとにBBS評価、Keyformを用いた課題抽出、プラン変更が実施された。介入内容は、BBS Keyformの使用後、歩行準備活動が15分間(時間配分25%)増加し、バランス練習に重点が置かれるようになった。KeyformはNCMRR(National Center for Medical Rehabilitation Research Classification)モデルを用いて、選択されたバランス課題に対する機能的制限、機能障害、病態生理を考察し、介入方法を立案するのに役立てられた。
A期(49病日~63病日):
- 移行ゾーンの課題: 移乗、床から物を拾う、閉脚立位保持。
- 機能的制限: 右側への重心移動困難、体幹立ち直り低下、左側ステップ時の易転倒性、下肢深屈曲支持性低下、膝伸展筋活動の低下、股関節屈曲への恐怖、左側への不安定性(重心偏位を感じにくい)。
- 介入内容: 座位と立位での重心移動練習、ステップ練習、30cm台からの立ち上がり、閉脚立位保持練習、タオルギャザー(感覚賦活)。
- 経過: BBSは45点に向上。重度感覚麻痺が残存し、歩行は独歩軽~中等度介助レベル。
B期(64病日~77病日):
- 移行ゾーンの課題: 360度回転、段差踏み替え、タンデム立位。
- 介入内容: 膝伸展筋+股外転筋の筋トレ、30cm台からの立ち上がり、タンデム立位保持練習、20cm左右交互ステップ練習、360度回転練習、タオルギャザー。
- 経過: BBSは52点に向上(49病日時点から11点向上)。歩行補助具なしでの病棟内歩行自立を達成。下肢感覚障害も改善を認めた。患者の主観的な評価として「バランスが良くなった感じがします。バランス練習が増えたおかげですかね」と効果を実感。
C期(78病日~91病日):
- 移行ゾーンの課題: 段差踏み替え、タンデム立位、片足立ち。
- 介入内容: 膝伸展筋+股外転筋の筋トレ、片足立位保持練習、タンデム立位保持練習、20cm左右交互ステップ練習。
- 経過: BBSは56点と満点に達した。退院後の生活を想定し、スラローム歩行練習、階段昇降練習を追加。
91病日~退院期(113病日):
- BBSが満点となりKeyformを用いた理学療法は終了。応用歩行練習、階段昇降、重量物運搬練習、下肢・体幹筋力トレーニング、自主トレーニング指導を実施。
- 退院時には左下肢の運動麻痺は正常となり、日常生活動作も全自立。最大歩行速度は1.05 m/秒。発症5ヶ月後には復職が確認された。
5. 考察と結論
本症例報告は、BBS Keyformを用いた理学療法が、被殻出血によるバランス機能低下患者の治療に有効であることを示唆している。
- セラピストの介入選択への影響: Keyformは、個々の項目に着眼し、患者の移行ゾーンを明確にすることで、至適難易度の課題を具体的に提案する。これにより、セラピストは具体的な介入内容を立案しやすくなり、本症例ではバランス練習の時間が25%増加した。この効果は、「プレコミットメント効果」によって、セラピストの臨床行動に影響を与えた可能性がある。
- バランス機能および歩行能力の向上: Keyform使用開始から4週後にはBBSが41点から52点へと11点向上し、これは回復期脳卒中患者における臨床的に重要な最小差(1ヶ月で5点)を大きく上回った。「脳卒中患者の屋外歩行自立のカットオフ値」である48点もクリアし、実際に患者は病院内での歩行自立を獲得した。
- 患者の主観的認識の改善: 介入初期には「よく分からない」と回答していた患者が、介入の進行とともに「バランスが良くなった」と効果を実感するようになった。これは、Keyformを用いた具体的な項目に焦点を当てた口頭フィードバックや、至適難易度のバランス練習量が増えたことによる心理的な変化(意欲・満足度など)が考えられる。
「Keyformを用いることで至適難易度のバランス課題を選択することでき、理学療法の内容や時間配分に影響を与えた可能性がある。また、患者はBBSの改善を示し、バランス機能に対する主観的な変化もみられた。」
本報告は単一事例であるため、その有効性を一般化することは難しいが、Keyformがセラピストの臨床行動と患者の治療経過に良い影響を与える可能性を示した。今後の課題としては、複数症例に対する研究、Keyform評価後の臨床思考過程と口頭フィードバックの方法論の確立、セラピストや患者に与える心理社会的な効果との関連性、セラピストの経験年数による効果の違いの調査などが挙げられる。
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